シュリー・ニサルガダッタ・マハラジの新刊が2018年4月に発売されました。その『意識に先立って』からのご紹介です。
この本は、マハラジが癌を患った最晩年の対話をまとめているものです。訳者の高木悠鼓さんがあとがきに書いていますが「I AM THATがどういう理由か、それは私にあまり読みやすい本ではなかった」とあります。
『意識に先立って』は『I AM THAT』に比べるとページ数としてはやや少なめですが、マハラジのエッセンスが凝縮されているような感があるように思いました。
意識に先立ってというのは、観念以前、経験や言語以前のまさに『私は在る』の状態を示していると高木さんは記しています。
この本の編集者ジーン・ダンは、晩年の数年間そばに居て話を聞いていたそうです。そして『一日に数ページ読んで、それについて考え、瞑想するといい』と、はじめに書いています。この『意識に先立って』はジーンさんが編集したマハラジの書籍のうちのひとつが日本訳されたものになるようです。
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1980年5月11日
マハラジ:
肉体においては、意識が観察し、行為は三つのグナによっておこなわれる。意識は全てに行き渡っていて、形のない空間のようだ。
<中略>
さて今、私が痛みを感じているとしよう。何かが起こり、私のマインドがそれに向けられる。
新しい出来事にマインドを向けると、私はそれまでの痛みを感じなくなるだろう。
しばしば私は体中がかゆくて掻くのだが、人前に座ると掻きたいという気持ちがなくなり、ただそれを我慢する。
我慢していると、それは消えてしまう。そうでなければ、掻き始めると皮膚がはがれ落ち、血が出始めても、それでもまだ痒みがとまらない。
マラティー語では「掻くことによって、かゆみを刺激してはいけない」ということわざがある。
大抵の痛みと苦しみはこのようなものだ。
つまり、
あなたが注意を払えば、それは刺激され、あなたはそれをあやさなければならない。
注意を払わず、兆候を無視すれば、それは消える。
あなたは痛みに耐える能力を持たなければならない。
肉体の中の意識は、まったく傷を持つことができない。
その性質とはそういうものだ。しかし、あなたが肉体と一体化するとき、概念的にそれを汚染するかもしれないが、本質的には意識は非常に純粋なものだ。
生命ー呼吸は非常に純粋であり、この存在性はさらにそれより純粋だ。
私はアートマン(至高の自己)、真我について話している。
この知識は正しい観点を持っていないものには、大きな不満を生み出すことになるだろう。
その意図とは、物事の状態を正しい観点で見ることだ。
これを見て、自分の能力のかぎりを尽くして、この世の中での自分の人生を生きなさい。
ニサルガダッタ・マハラジ
本書の中では、主に質問形式で難しい話題を扱っているのですが、この章では、アートマンをわかりやすく語り、真我について話をしています。
タイトルの命題に戻りますと
もし人が病気や痛みをもつなら、それには形があるだろうか?
それはただ意識の中の運動にすぎない。
と書かれています。そして
意識を知る者は痛みを感じることができない。
ただ意識がそれ自体を痛みと一体化するために、肉体は痛みを感じるのだ。意識がそこにいないとき、たとえ肉体が来られても痛みはない。
痛みを感じるのは肉体ではない。五大元素のバランスに混乱が生じるとき、病気がやって来て、その病気や痛みが意識の中で感じられるのだ。
ニサルガダッタ・マハラジ
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