ラメッシ・バルセカールの本「誰がかまうもんか?!」(※外部リンクへ)にある、序文のざっくばらんな導入部の言葉である師とのやり取りの本質が理解できていないカルメンという質問者から、ラメッシに問いかけがあります。
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誰がかまうもんか?! が持つ本当の意味を読み解く
カルメン:ラメッシ、私はどうしてあなたが、「誰がかまうもんか」と言えるのか理解できません。それは私を困惑させます。
あまりに多くの不幸があり、お互いに起きていることにかまわない人々がいます。
ときに私は、それをこれれ以上受け入れられないというギリギリのところまできて、するとあなたは、「誰がかまうもんか」と言うのです。ラメッシ:ちょっと待ってください! あなたは、「誰がかまうもんか」が言われる文脈を理解していません。
その文脈は、明らかに、「自分」が探求──神や悟りや何であれを求めること──をおこなっていると思っている見かけの探求者たちに向けられたものです。
「誰がかまうもんか」は、現象の中の人生についてのものではありません。
「誰がかまうもんか」が意味するのは次のことです──神が私をこの道へ早く連れて行こうが、ゆっくりだろうがかまわない──そんなこと、誰がかまうもんか。それは彼のやることだ。
この態度は、実用的生活とは何の関係もありません。
では、「誰がかまうもんか」という言葉の意味は、人生一般とどの程度関係があるのでしょうか?
たとえば、あなたに二人の知り合いがいるとします。
一人はとても他人に気を遣う人で、もう一人はほとんど他人に気を遣いません。他人に非常に気を遣うほうの人は、仮に他人に気を遣うのをやめるように言われても、それをやめないでしょう。
また他人に気を遣うことができない人は、たとえあなたがその人にそうするように言っても、そうすることができないでしょう。
なぜでしょうか?
それは、一つ一つの肉体精神機構にはある性質があり、それは、「その人」が獲得したものではなく、その肉体精神機構といっしょにやってきたものだからです。
一つの肉体精神機構は、他人を気遣うことをその性質の一部とする深い感受性を伴って創造されました。そして、もう一つの肉体精神機構も同じ源泉、同じ神から、感受性をあまり伴わずに創造されたとしたら、感受性のなさはその性質であり、それに対してその人は何のコントロールもできないのです。
人がプログラムされるやり方、人の本質的性格は──感受性があろうとなかろうと──誰もコントロールすることができません。
私は、人生を生きるうえでの態度が、「誰がかまうもんか」であるようにと勧めているわけではありません。
むしろこの言葉は、霊的進歩を求める探求者の態度に関係するものです。
ラメッシが序文で表現したことがうまく噛み砕いて説明されていると思います。
ゲリー・ボーネルの言葉でありましたが『アセンションする(※多分この意味は解脱・悟りのこと)ことは非常に個人的なことです。誰かと一緒にとか、みんなで、ということはない』という話を読んだことがあります。
それに通じるものもあるなと思います。
Photo by Andrew Shiau on Unsplash
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