ラマナ・マハルシの『あるがままに』の本編『第五部 体験』からをご紹介したいと思います。第16章の『困難と体験』では冒頭に
身体的苦痛や不安、精神的混乱、感情の揺らぎ、そしてその合間にしばしば起こる至福の平和は、霊的な修練の副産物としてたびたび体験されることである。(中略)
シュリー・ラマナはほとんどの霊的体験を重要視しない傾向にあった。それらについて報告されたとき、彼はたいていの場合、体験を分析したり、体験に浸ったりするよりも、体験する人そのものの存在に気づくことがより重要であることを強調してきた。
と あります。
シュリー・ラマナが帰依者に向けて『体験に興味をもつことを思いとどまらせていたようだ。』ともあります。
<スポンサーリンク>
第16章 困難と体験
質問者:
人はときおり、自分の中心がいわゆる自分の外側にあり、しかもそれが一切を含む生き生きとした意識の閃光であることを見ます。哲学的な概念にとらわれることなく、この稀有な閃光を獲得し、維持し、拡大していくにはどうすればいいのでしょうか。(中略)
マハルシ:
あなたは「外側」と言う。
誰にとって外側と内側があるのだろうか?主体と客体があるかぎり、外側と内側は存在する。
もう一度言うが、それらは誰にとって存在するのだろうか?
調べてみれば、それらはただ主体のなかに溶け去ることがわかるだろう。
その主体とは誰なのか、それを見極めなさい。この探求が、主体を超えた純粋な意識へとあなたを導くだろう。
あなたは「いわゆる自分」と言う。いわゆる自分とは心のことである。
その心は限定されている。だが、純粋な意識は限定の彼方にあり、それは「私」の源へと探求することによって到達される。
あなたは「獲得する」と言う。真我はつねにそこに在る。あなたはただ真我を覆い隠すヴェールを剥ぎ取るだけである。
あなたは「維持する」と言う。ひとたび真我を実現すれば、それはあなたの直接の即時の体験となる。そして二度と失われることはない。
あなたは「拡大する」と言う。真我が拡大することはない。それはつねにあるがままに在り、縮小や拡大はありえないからである。
シュリー・ラマナ・マハルシ
<スポンサーリンク>
関連した他の記事も読む
エックハルトトール|インナーボディにつながる方法 01
大いなる存在とつながっていれば、この実体は躍動する「内なる生命」もしくは「インナーボディ」として感じられます。つまり、「からだに住まう」ことは、からだのうちにある生命を感じることであり、そうすることによって、「わたしは見かけの姿を超越した存在なのだ」、という認識に到達できるのです。
ラメッシ|真我を覚醒するとは?|誰がかまうもんか?!
自分自身を改善しなければならない、変えなければならない、変容しなければならないーーそれがすべての問題ではありませんか?
なぜ自分を変容すべきなのでしょうか?なぜ自分をありのままに受け入れないのですか?あなたが求めている心の平和は、あなたが”それを求めるのをやめて、ものごとを起こるがままにする”ときに”のみ”生じるのです。
あるがままに|ラハマ・マハルシの教え