ラマナ・マハルシの『あるがままに』から引き続き【小冊子】『私は誰か? -Who am I ?-』に記載されていたものをご紹介します。
この記事を書くにあたり、あらためてラメッシの書籍を読み返してみると、ラマナ・マハルシの影響は大きなものだったのだなと感じました。
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ご紹介する章は、【小冊子】『私は誰か? -Who am I ?-』の中でもとてもわかりやすく、生活や瞑想において活用できること、イメージしやすいものです。
私は誰か? -Who am I ?-
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。
誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛がみられる。
そして幸福だけがその愛の源なのである。
それゆえ、人間の本性である幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、人は自分自身を知らねばならない。
そのためには、「私は誰か?」という問いで探求する知識の道が最も重要な方法である。
24 幸福とは何でしょうか?
幸福とは真我の本性そのものである。
幸福と真我は別のものではない。世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、ものごとから幸福を得るものだと思っている。
心が外へ出ていくと、不幸を体験する。
心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻っており、真我である幸福を楽しむのである。
同じように、眠りの状態、サマーディ※1、失神状態、あるいは得たいと願っていたものが得られたり、嫌っていたものが消し去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な真我ー幸福を楽しむのである。
このように心は休むことなく動きまわり、真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。
木陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。
灼熱の太陽のなかを歩いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。
木陰からわざわざ出て猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。
同じように、真理を知る人の心は、ブラフマン※2を離れることはない。
その反対に、無知な人の心は、悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福をあじわうためにブラフマンに戻ってくる。
実際には、世界と呼ばれているものはただの想念にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は幸福を体験する。
世界が現れると、不幸を味わうのである。
シュリー・ラマナ・マハルシ
※1 真我の直接体験をした人の状態
※2 ヒンドゥー教の非人格的絶対神
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