マハラジの『私は在る』 からのご紹介です。
ニサルガダッタ・マハラジが質問者の「古い自己と別に新しい自己が出現した」というエピソードに答えていきます。「新しい自己とは古い自己の完全な否定で、許容された新しさは本当の新しさでない」と彼は話します。
42 実在とは表現不可能なもの
マハラジ:あなたが古い自己と新しい自己語るとき、誰を思っているのかね?二つの間に記憶の継続性があるということは、互いが相手を覚えているということだ。
どうして二つの自己を語ることができようか?質問者:一方は習慣の奴隷であり、もう一方はそうではありません。一方は観念化し、もう一方はすべての観念から自由です。
マハラジ:なぜ二つの自己なのかね?束縛と自由の間には何の関係性もありえない。共存と言う事実自体がそれらの基本的な統合を証明している。
「自己」はひとつ だけ存在する
ひとつの自己だけが存在する。
そしてそれはいつも今、あるのだ。新旧はともかく、あなたの言うほかの自己とはひとつの形態、自己の別の相なのだ。
自己は単一なものだ。あなたがその自己なのだ。
あなたはこうであった自分と、こうなるだろう自分と言う観念を持っている。しかし観念は自己ではない。
たった今、私の前に座るあなたはどちらの自己だろうか?古い自己か、新しい自己か?質問者:二つは衝突しています。
マハラジ:どうして存在するものとしないものの間に衝突がありうるだろう?
衝突は古い自己の特質なのだ。
新しい自己が現れるとき、古い自己は消え去る。新しい自己と衝突を同時に語ることはできない。新しい自己への努力についてでさえ、古い自己が語っているのだ。衝突、努力、闘い、奮闘、変化への熱望が語られるところに新しい自己はいない。衝突をつくり出し永続させる習慣的傾向から、どの程度あなたは自由なのだろうか?
質問者:私が今、別の人になったとは言えません。しかし、以前私が知っていた状態とは異なる私についての新しいことがらを発見し、それらを新しい自己と呼ぶにふさわしいと感じるのです。
自己と突如現れる「神」の関係
マハラジ:古い自己があなた自身なのだ。原因なく、自我の汚れもなく突然出現する状態を「神」と呼ぶがいい。
種子もなく、根もなく、芽を出さず、生長せず、花も果実もない、存在の中に突然栄光が満ちて、神秘的で驚異的に現れる、それを「神」と呼ぶがいい。
それは全く予期できず、しかも必然的なもの、限りなく親しく、しかも最も驚嘆すべきもの、すべての期待を超え、しかも絶対に確実なものだ。なぜなら、それには原因がないため、障害がないからだ。
それはひとつの法のみにしたがう。自由の法だ。何であれ、継続性や連鎖を含み、段階から段階へと変化していくものは実在ではありえない。実在に発展ということはない。
実在は最終的な、完全なもので、関係性を持たないものだ。ニサルガダッタ・マハラジ
神の出現を自分にみたとき、人はどのように感じるのでしょうか。それは求めれば、手に入るものなのでしょうか。アイ・アム・プレゼンスの領域について、時期をみて書いてみたいと思います。
マハラジは「何であれ起こることは起こるだろう。必要なのは、誠実な関心をもつことだ。誠実さが要なのだ。」と結んでいます。
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アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話